オープンダイアローグの面白さに、日々はまっていっているオキエです。
ゴールデンウィークの読書用に買った、新たな一冊。
面白いわ~
ここからはオキエの勝手な読書感想文だと明記したうえで、感じた事・思うところをそのまま覚書として、書いておきたいと思います。
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まず「対話」するために必要なもの。
それは、自分の感じてる事・考えている事を話した時に、否定されたり判断されたり馬鹿にされたりすり替えられたりコントロールされたりしないという絶対的な安心感。
実は褒める時にも、相手に「元気になってもらおう、好ましい状態になってもらおう。」というコントロールの意図が含まれる場合がある。いくら善意の意図であっても、それがコントロールである以上、こっち側の欲求が優先されているのだ。
そういった意図のない場所で、ただただ安全に「対話」さえなされれば、人は誰でも自分で気づき、癒され、回復し、歩き出せるらしい。
とにかく人の話を黙って聞くのは難しい。
途中で自分が持っている正解や考えを言いたくなる。でも、本当の「対話」には結論や結果は必要ない。
相手が話すことを黙って聴き、その事をもっと知るための質問をし、「私はこんなふうに感じました。」と、ただ自分の感じたままを相手に正直に述べるのみ。
※相手がいない場所で相手の話はしないという原則がある。
そのプロセスこそが必要なだけで、正解はなくていいらしい。
かつて心が話をしたいと思った時に、それが叶わず飲み込まれてしまった言葉。そんな言葉の亡霊たちが、様々な精神の不調の根源にあるのかもしれない。
本を読みながら、自分の話し方の癖についても考えてみた。
私は人と話をしていて、相手についつい正解を与えたがったり、元気を出させたがったり、守ってあげたがったり、過剰なサービスをしたがる傾向がある。
誰かの幸せに役に立ちたい気持ちが強いのだ。でもその癖が、相手との距離を作り、自分を苦しめているように感じる時もある。
「それはなんでなんだろう。」と掘り下げて考えていて、それが二人の弟のお姉ちゃんとして親から求められていたスタイルだったからじゃないか、という事に突き当たった。本来の気質もあるかもしれないけど、しんどく感じてでもしてしまう部分は、きっと親からコントロールされて出来上がった私なのだ。
本当は私、しっかりなんかしていない。
しっかりしなきゃって必死になってるだけ。
しっかりなんかしたくない。
そんなふうに言いたいけど言えなかった言葉が、私の中にまだ彷徨っているのかもしれない。
だから何なんだ、という結論を出す必要はない。
それがわかっただけで、いい。
それだけで、私が変わっていくのがわかる。
母親として子供達にかけようとしていたコントロールが、見えてくる。
違う、必要なのはそういう言葉じゃない。もっと誠実に、もっと正直に、もっと尊厳を持ってただ聴くだけでいい、という事が、わかってくる。
彼らは私ではない。
だから彼らの気持ちは、彼らのものなのだ。それは丁寧に聴いて行かないと、わからなくて当然なのだから。
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オープンダイアローグで推奨されているのは1対1の会話ではなく、少なくとも三人以上の輪になった状態での会話です。当人同士でこじれた感情は、第三者が入る事で客観的に見直していくことができるからです。
でもそれは治療として行われる場合のもので、たぶんエッセンスさえ習得で来たら、日常のいたる場面の会話にも使えて有効なものだと感じています。
そしてこのエッセンスが日常会話に入ってくることで、世界はとても平和になっていくような気がしています。
そういう意味で、もっと勉強してみたい。
コロナが収束したら、講習会とか探して参加してみようかな。
という感じで
また何か見つけたら、これからも書き連ねて行きたいと思います。