のんびりステイホームな一日をすごしたオキエです。
3時のおやつは鳴門金時羊羹でした。
平和だわ。
さて
いま京都では、「Pray for Myanmar」という写真展が開催されています。
まだクーデターが起こる前の、平和なミャンマーの町の風景が展示されいるそうです。
※ネットでも展示写真が見れます。
Pray for Myanmar|UnoFOTO 京都写真美術館
胸が痛い・・・。
写真の中で笑っている彼ら、彼女たちはいまどうしてるんだろう。
以前、現在のミャンマーの状況をテレビで見たとき、「王家に捧ぐ歌」を聴きながら世界平和を祈ったりしましたが、やっぱりここは日本国を代表する神様の前に行って祈ったほうがええんちゃうか。という思いがわき上がってきました。
そこで、淡路島にいらっしゃいます国生みの神様「伊弉諾神宮」へお参りすることを思い立ちました。
そして、オノコロ島伝承の地を巡りました。
オノコロ島:神々がつくり出した最初の島
鳥肌体験の連続で、神様は本当にいると信じざるを得ないような、そんな旅になりました。
また、淡路島の魅力や詳しい行程・場所の紹介などは、後日落ち着いた頃に載せていきたいと思っています。
昨今、
日本人は一つの宗教に対する信心は薄いが、信仰心が無いわけではない、という言論を目にするようになりました。
山々に、草花に、海に、朝日に、夕日に、生かされている加護に、地域の神様に、八百万の神々に、よく感謝をする国民だ。と、私も思います。
ご多分に漏れず、オキエもそういった信仰心はけっこう強く持っているほうだと思います。
ただ、「信仰の場では、愛ある場所では、コロナは伝染らない。」みたいな話が信心深い人たちの間からたまに聞こえてきますが、オキエはそれとはちょっと違う考えを持っています。
そもそもコロナも神様が創り出したものなわけです。それどころか、戦争も、災害も、ありとあらゆる悪のようなものも、全て神様が創り出したものです。日本の神話も見てても、世界の宗教画を見てても、それは明白です。
その悪を内包してこその、神様なわけです。
だったらどんなに信仰心があったって、愛があったって、かかるときはかかるわけです。ちゃんと用心するにこしたことはないんです。「用心」だって神様が創り出したものなんですから、使ったほうが都合良い時は使えばいいのだ、という理屈です。
ただ、どの考え方も、どんな結果も、神様は許しているのです。路上で仲間と楽しくお酒を飲むことも、それを厳しく取り締まることも、それぞれに対して怒ることも、神様は許している。そこがややこしくていつも間違えそうになる。
じゃあ、神様はなぜ、わざわざ悪のようなものを創り出しては私達に与えるのか。
みんなで助け合って平和に暮らすために、私は一体何をどうしたらいいのか。
などと
相変わらず考察好きの私ですが、
今回の旅で、私なりにいくつかヒントを受け取れたような気がしています。
まだまだ言語化はできないけど。
とりあえず、今年やって来る繁忙期はがんばろう。
そして自分の人生を、誠実に、真摯に、生きれるように努力しよう。
と、思っています。